2014年01月21日
語り合えなかった、接点
画像の方をご存じでしょうか

先日91歳で亡くなられた、小野田寛郎さん
フィリピンのルバング島で、太平洋戦争の終結が届かず
22歳からの30年間近く、ゲリラ戦を展開
旧上官の命令書を受け、ようやく武力解除をし下山した方です
そもそも小野田さんは、東南アジアで貿易の仕事をしていたため
優れた語学力と、優秀さから
軍に召集後、当時のスパイ養成所
中野学校で、日本の敗戦後のゲリラ活動まで想定して
最後まで抵抗することを、徹底的に叩きこまれ
情報将校として、ルバング島に送り込まれたのです
戦闘行為とはいえ、地元住民を殺害
略奪行為に及んでおり、当然死刑になるものと
本人も覚悟をしていたそうです
ところが、あまりに純粋に軍務を遂行していたためと
解釈されたのか、特別恩赦で
無罪放免となり、帰国を果たしたのです
画像の小野田さんの、眼光は鋭く
まさに戦時中の、軍人そのものです
当時のマスコミは、旧日本国軍の亡霊などと
心無い言葉を浴びせられたり、変わり果てた祖国に
失望し、その後ブラジルに渡り
農園をされ、日本人初となる叙勲を
ブラジルから受けるなど、地域にも貢献され
日本の行く末を憂慮され、若者のための
「小野田自然塾」なるものも、主催された

時代の大波に奔走されながらも、信念を貫き
その人生を、全うされた小野田さん
晩年の画像は、先の画像とはうって変わって
あらゆる辛酸を、その身に内包した
まことに穏やかな、表情をされています

その小野田さんが、帰国後書かれた
「わがルバン島の30年戦争」
原鈑、中学一年生くらいに
なぜか、家の片隅に置いてあるので
手にして、読みだすと
一気に、読破した記憶があります
原鈑の実父は、大工でした
自分の記憶では、屋根から落ちたり
大きなケガを、2回ほどしたことがあります
一回は、入院をしたので
その時に購入して、読んだのでしょう
父は、家の中ではまったく無口な人でした
そのかわり、他人の悪口や
仕事のグチなども、一切聞いた記憶がありません
語る事もなく、また自分から父に対して
語りかける事もしなかったので、会話らしい会話を
ほとんどすることもなく、22年前に父は他界しました
小野田さんの訃報にふれ、実家にあった一冊の本が
鮮明に思い出され、いま父が生きていれば
あの本を読んで、何を感じたのか
たとえ一言二言でもいい、聞いてみたいもんだと
ふと思いをはせた、その日の夜でした・・・
人生で一番華やかな20代からの30年を
ジャングルで過ごし、帰国してから
本当の人生をスタートさせた時、小野田さんは51歳でした
それから、社会に順応し
なおかつ、数々の功績を積み上げてこられたのです
父よ!あなたの息子も50歳になりました
あなたに恥じないよう、いまからまた
おのれの人生、頑張りますよ~!

先日91歳で亡くなられた、小野田寛郎さん
フィリピンのルバング島で、太平洋戦争の終結が届かず
22歳からの30年間近く、ゲリラ戦を展開
旧上官の命令書を受け、ようやく武力解除をし下山した方です
そもそも小野田さんは、東南アジアで貿易の仕事をしていたため
優れた語学力と、優秀さから
軍に召集後、当時のスパイ養成所
中野学校で、日本の敗戦後のゲリラ活動まで想定して
最後まで抵抗することを、徹底的に叩きこまれ
情報将校として、ルバング島に送り込まれたのです
戦闘行為とはいえ、地元住民を殺害
略奪行為に及んでおり、当然死刑になるものと
本人も覚悟をしていたそうです
ところが、あまりに純粋に軍務を遂行していたためと
解釈されたのか、特別恩赦で
無罪放免となり、帰国を果たしたのです
画像の小野田さんの、眼光は鋭く
まさに戦時中の、軍人そのものです
当時のマスコミは、旧日本国軍の亡霊などと
心無い言葉を浴びせられたり、変わり果てた祖国に
失望し、その後ブラジルに渡り
農園をされ、日本人初となる叙勲を
ブラジルから受けるなど、地域にも貢献され
日本の行く末を憂慮され、若者のための
「小野田自然塾」なるものも、主催された

時代の大波に奔走されながらも、信念を貫き
その人生を、全うされた小野田さん
晩年の画像は、先の画像とはうって変わって
あらゆる辛酸を、その身に内包した
まことに穏やかな、表情をされています

その小野田さんが、帰国後書かれた
「わがルバン島の30年戦争」
原鈑、中学一年生くらいに
なぜか、家の片隅に置いてあるので
手にして、読みだすと
一気に、読破した記憶があります
原鈑の実父は、大工でした
自分の記憶では、屋根から落ちたり
大きなケガを、2回ほどしたことがあります
一回は、入院をしたので
その時に購入して、読んだのでしょう
父は、家の中ではまったく無口な人でした
そのかわり、他人の悪口や
仕事のグチなども、一切聞いた記憶がありません
語る事もなく、また自分から父に対して
語りかける事もしなかったので、会話らしい会話を
ほとんどすることもなく、22年前に父は他界しました
小野田さんの訃報にふれ、実家にあった一冊の本が
鮮明に思い出され、いま父が生きていれば
あの本を読んで、何を感じたのか
たとえ一言二言でもいい、聞いてみたいもんだと
ふと思いをはせた、その日の夜でした・・・
人生で一番華やかな20代からの30年を
ジャングルで過ごし、帰国してから
本当の人生をスタートさせた時、小野田さんは51歳でした
それから、社会に順応し
なおかつ、数々の功績を積み上げてこられたのです
父よ!あなたの息子も50歳になりました
あなたに恥じないよう、いまからまた
おのれの人生、頑張りますよ~!
パパちゃんがまだ赤ん坊の私を連れて
この方の家を見に行ったそうです。
うわぁ・・・まったく覚えてねぇ。
オドロキ!\(◎o◎)/!
帰国後、ご結婚された相手の方も
いろんな活動をされているようですね~
逆にその時の、記憶がある方が怖いでしょ(^_^;)
それとも歯痒い思いで怒っておられるかもしれませんね。
あぁ、頭が悪くてまとめられない(笑)
原鈑さん同様、話すことはほとんどなかったですが、父親の子供達への愛情は感じていました。
男は、皆のために盾や鉾になるのが、宿命な気がします。
それが、私の男像かもしれませんが…
家族や日本のために戦った日本軍人がたくさん命を落とした。
もちろん日本以外の軍人も。
嘗ての戦勝国は自国の墓地に当然のごとくお参りをする。
そして負けた日本は参拝に行くと責められる。
戦争というのは、そういうこと。
正義は双方にある。
父は通信兵で船大工だったそうです
父も無口な人でしたがRYUは父っ子だったから
何処へ行くにも連れて行ってもらい可愛がってもらったのに
何の恩返しもできなかった。
当時の小野田さんは、あくまでも任務を全うしていたのです
それを無神経なマスコミが、「本当は終戦を知っていたんでしょ?」等々
無神経な質問をされれば、口を閉ざしたくもなりますよね
日本のために戦い抜いた人ですから、2枚目の画像のように
温かいまなざしで、見守られておられるのでは
ないでしょうか・・・ご冥福をお祈りします
やっぱり太陽 様
昔は、今よりずぅ~と自己犠牲の愛が深かったように思います
今は、個人を尊重するあまり
家族や人間関係が、希薄になってきたと言われますが
物言わぬ教えが、一番身に染みる事を
最近は感じています
じもんジトー 様
戦争の勝ち負けより、日本が仕掛けた戦いであったことを
忘れてはいけないと思います
戦勝国が執行した裁判とはいえ、戦争の口火を切った
戦犯者をも祭ってある神社に、公式に参拝するなど
もってのほかであるというのが、私の持論です
多感な青春時代に、組合活動をしていた私は
どうしても、左寄りの思考になりがちです
そんな中、自身の主張をされるじもんジトーさんは
貴重な存在です、今後も論戦お願いいたします
RYU 様
RYUさんの、パッチリまつ毛は
お父様ゆずりですか?
自分自身が、生きている幸せを満喫する
それが今できる、一番の恩返しになるのだと思います