2017年02月11日
プレイボーイなアイスはみたらし団子
大気が刃物のように感じる
凍てつく夜
〇ーソンに潜伏させている、諜報部員から
通信を知らせる、LINEのチャイムが鳴った

「だんな、例のブツが入ってますぜ!」
了解のスタンプを、間髪入れず
送り返し、ダウンジャケットを羽織り
夜の街に車を走らせる
深夜のコンビニに、車を停めると
周囲に目配せをしながら、店内へ侵入する
そのブツは、冷凍庫の中
人知れず、積み込まれていた

冬のアイスという地位を、確立した名品
「雪見だいふく」の限定バージョン
その名も、「雪見だいふく 黄金のみたらし」!!
こっそりレジにブツを置くと、高らかに金額を
告げる店員
(隠密行動なのに、やっやめてくれ!)
足早に店を後にし、本部に戻ると
さっそくブツを確認する

見た感じは、雪見だいふくと
なんら変わらないようだが・・・
パッカ~~ンっと、割ってみた
雪見だいふくより、外側のモチが
確かに厚めだ
中のみたらしの餡も、甘すぎず
程よい塩気もあり、まさに冷製の
みたらし団子と言える
そして何より、あっという間に
食べきってしまう、はかなさも
本家の「雪見だいふく」さながらの
食後のさみしさを誘うのだ
(大人になったら、絶対2パック
食べてやる・・・・・・・・!)

郷里の新潟では、みたらし団子ではなく
しょうゆ団子と言っていた
あんも、醤油の味が強く
そんなに甘くなかった
でも、「みたらし」というと
「女たらし」みたいで、へんにウキウキ
女たらしと言えば、英語でプレイボーイ
中学の頃、もてるプレイボーイがいて
そいつは、彼女の大事なところも
みたらしい・・・と噂が立ち
年の離れた兄を持つ、ませた友達の家に
遊びに行ったとき、俺たちも大事なところを
見たい!プレイボーイにはプレイボーイだ!
わけのわからない理屈で、友達が取り出したのは
兄の宝物の雑誌、本場アメリカ版プレイボーイ
「俺たちも、大人の階段を登るんだ!」
高らかに宣誓し、ページをめくる友人
高鳴る胸の鼓動、未知との遭遇!
グラビアの、一点に
全神経を集中させる、若者二人
ところが、とんでもない現実が
大人への高い障壁となって、二人の前に
立ちふさがっていたのだ
大事な部分が、黒いマジックで
塗ってあるではないか!
俺たちは、教科書やノートの大事な部分は
蛍光色のアンダーラインを引くのに
米国人は、大事な部分に
墨を塗るのか~~~!!
ホワィ アメリカン ピーポー‼
いや、それはアメリカ人でなく
到着した空港の、税関の職員
日本人の仕業だったのだ…
しかし、若者の飽くなき探求心は
折れなかった
マジックなら、シンナーで落とせるはず!
そう叫んだ友人は、プラモデルの
塗料用のシンナーを、布に染み込ませ
女体のデリケートゾーンを、ゴシゴシと
こする
するとどうだ、期待を裏切ることなく
悪の象徴である、黒のマジックは
みるみる消えていく
大人への扉が開いた!
栄光の瞬間を、確信したその時
二人の眼に、映ったものは
印刷もとれ、白い紙に戻ったグラビア
大事なところを、神々しいまでに
白く輝かせ、にっこり微笑む
金髪美女
お宝を目前にしながら、目の前の海に
沈めてしまった、海賊のように
無言で立ち尽くす、若人二人
みたらし団子のように
甘酸っぱい想い出が、味覚と共に
口の中に溶けてい…
プレイボーイなあいつは、見たらしい…
凍てつく夜
〇ーソンに潜伏させている、諜報部員から
通信を知らせる、LINEのチャイムが鳴った

「だんな、例のブツが入ってますぜ!」
了解のスタンプを、間髪入れず
送り返し、ダウンジャケットを羽織り
夜の街に車を走らせる
深夜のコンビニに、車を停めると
周囲に目配せをしながら、店内へ侵入する
そのブツは、冷凍庫の中
人知れず、積み込まれていた

冬のアイスという地位を、確立した名品
「雪見だいふく」の限定バージョン
その名も、「雪見だいふく 黄金のみたらし」!!
こっそりレジにブツを置くと、高らかに金額を
告げる店員
(隠密行動なのに、やっやめてくれ!)
足早に店を後にし、本部に戻ると
さっそくブツを確認する

見た感じは、雪見だいふくと
なんら変わらないようだが・・・
パッカ~~ンっと、割ってみた
雪見だいふくより、外側のモチが
確かに厚めだ
中のみたらしの餡も、甘すぎず
程よい塩気もあり、まさに冷製の
みたらし団子と言える
そして何より、あっという間に
食べきってしまう、はかなさも
本家の「雪見だいふく」さながらの
食後のさみしさを誘うのだ
(大人になったら、絶対2パック
食べてやる・・・・・・・・!)

郷里の新潟では、みたらし団子ではなく
しょうゆ団子と言っていた
あんも、醤油の味が強く
そんなに甘くなかった
でも、「みたらし」というと
「女たらし」みたいで、へんにウキウキ
女たらしと言えば、英語でプレイボーイ
中学の頃、もてるプレイボーイがいて
そいつは、彼女の大事なところも
みたらしい・・・と噂が立ち
年の離れた兄を持つ、ませた友達の家に
遊びに行ったとき、俺たちも大事なところを
見たい!プレイボーイにはプレイボーイだ!
わけのわからない理屈で、友達が取り出したのは
兄の宝物の雑誌、本場アメリカ版プレイボーイ
「俺たちも、大人の階段を登るんだ!」
高らかに宣誓し、ページをめくる友人
高鳴る胸の鼓動、未知との遭遇!
グラビアの、一点に
全神経を集中させる、若者二人
ところが、とんでもない現実が
大人への高い障壁となって、二人の前に
立ちふさがっていたのだ
大事な部分が、黒いマジックで
塗ってあるではないか!
俺たちは、教科書やノートの大事な部分は
蛍光色のアンダーラインを引くのに
米国人は、大事な部分に
墨を塗るのか~~~!!
ホワィ アメリカン ピーポー‼
いや、それはアメリカ人でなく
到着した空港の、税関の職員
日本人の仕業だったのだ…
しかし、若者の飽くなき探求心は
折れなかった
マジックなら、シンナーで落とせるはず!
そう叫んだ友人は、プラモデルの
塗料用のシンナーを、布に染み込ませ
女体のデリケートゾーンを、ゴシゴシと
こする
するとどうだ、期待を裏切ることなく
悪の象徴である、黒のマジックは
みるみる消えていく
大人への扉が開いた!
栄光の瞬間を、確信したその時
二人の眼に、映ったものは
印刷もとれ、白い紙に戻ったグラビア
大事なところを、神々しいまでに
白く輝かせ、にっこり微笑む
金髪美女
お宝を目前にしながら、目の前の海に
沈めてしまった、海賊のように
無言で立ち尽くす、若人二人
みたらし団子のように
甘酸っぱい想い出が、味覚と共に
口の中に溶けてい…
プレイボーイなあいつは、見たらしい…
2016年02月06日
急逝!韮沢靖氏

韮沢靖氏逝去!
スマホのニュース速報で、浮かび上がった文字に
目を疑った、あまりに突然な同級生の訃報
韮沢靖、おそらく身の回りではその名を知っている方は
いないであろう
リアルデビルマンなどの原型師、仮面ライダー等のキャラクター
デザイナー、高校の時の同級生だった
自分の身の周りで、ウイキペディアの検索に引っかかるのは
彼ぐらいだろう、10代後半の当時から、絵のうまさは抜群だった
人の教科書の挿絵に、落書きするいたずらをよくしていた
それを見て、爆笑したり、がく然とするクラスメートを見て
悦に入っていた
しかし、韮沢靖の教科書にだけは、手を出せなかった
圧倒的な画力で、自分が凌駕されるのが
火を見るより明らかだったからだ
当時の商業科は、ソロバンの授業があった
左利きの彼と自分は、最前列の真ん中に並んで
座らされた
お調子者で、左右にこだわらない自分は
ソロバンを右手ではじき、左手で答えを書くという手法で
全学年中ただ一人、一年で2級まで進んだ
隣席の彼は、左手でいやそうにソロバンの玉を
パチパチとはじいていた姿が、すごく窮屈そうに見えた
当時から彼は、モノを斜めから冷めた視線で見ていた
クラスの輪の中で、はしゃぐこともなく
絵の話だけは、とつとつと語るそんな男だった
東京に上京し、彼のアパートに何べんか遊びに行った
男の部屋とかいう本の記者が、取材に来るほど
ぶっ飛んだ部屋だった
カメラのフィルムケースに、水を満たし
怪物のフィギアの頭だけを入れて、陳列してあったり
トイレの白い壁一面に、エアーブラシで落書きしてあったり・・・
何回目かの訪問の時、テンションが低い彼が
よりいっそう落ち込んで見えた
「来られても迷惑・・・」彼がポツリと言った言葉が
信じられなくて、もう一度聞き直した
「こんな風に来てもらっても、迷惑なんだよ」
こちらに顔を一切向けず、畳に視線を落としたまま
彼は誰に告げるでもなく、つぶやいた
あの弱弱しい、今考えればさみしげだった
あの横顔が、彼に会った最後だった
それから、彼のアパートに行くこともなく
彼との交流は一切なくなった
彼の活躍を知ったのは、天草に来てからだった
自分の事のように嬉しかった
多くの才能あるものが、陽の目を見ないで終わる中
その才能を、開花させていたのだ
あまりの嬉しさに、俺より先に有名になりやがって!っと
メールを打った、しかし返事は返ってこなかった・・・
お前に肩を並べるようになって、会いに行ってやるよ
そう決意をしてから、何年過ぎただろう
会って、いろんな話がしたかった
何年たっても、どんなに有名になろうとも
あいつは、あいつのままのはずだから
あの時は、落ち込んでいて
思わず来るなって言っちゃったんだよ
笑いながら、そういう会話ができる日が
来ると信じていた
だけどもう、かなわない・・・
韮沢靖、ニラ
やすらかに眠れ!合掌・・・
2016年01月31日
雪上ウォーク 雪国極上の朝

画像を見て、すぐに名前が言える人?お好きですね
そう、昨年末最新版「 エピソードⅦ フォースの覚醒」が
公開された、スター・ウォーズ シリーズ
エピソードⅤ 帝国の逆襲で登場した
ATAT スノーウォーカーです
こんな重量のあるメカが、こんな表面積の小さい足で
雪上をかっ歩できるのか?という疑問は
宇宙空間で、火や煙が出まくる
宇宙戦艦ヤマトの戦闘シーンを問うのと同じ
愚問です!
最近、ありがたいことに当ブログや
原田鈑金塗装のホームページをご覧頂き
ご来店下さるお客様が、増えてきました
「原鈑さんは、新潟のご出身だから
天草の冬なんか、全然平気でしょ?」
よく尋ねられます
「はい、へのかっぱ~!ぷっぷ~~!!」と
即答したいところですが、冬の寒さは苦手です
スポーツ心臓で、心拍数が人より少ないせいか
指先は、人より冷たいんです
先日の大雪、あの状態が数か月にわたって
続くのが、雪国の冬です
青い空は、ほとんど拝めません
毎日出勤前は、車庫前の雪かきを数十分
屋根の雪下ろしも過酷ですが、もっと大変なのは
屋根から降ろした雪の処理です
家から離れた集雪場や、融雪溝
川まで、スノーダンプというソリのようなものへ
スコップで雪を入れ、それを一回一回せっせと
運ぶさまは、角砂糖を崩して巣まで運ぶアリのようです
原鈑はもっぱら兄と母に任せ、雪遊び専門でしたが(笑)
しかし、そんな雪国にしか味わえない
極上の日があります「凍み渡り」という現象です
凍み大根や、凍み豆腐と同じ、凍る=「しみ」です
それは冬も終わりに近い、3月頃におこります
天気がよく、太陽の陽ざしが積もった雪の
表面を溶かします、その夜は放射冷却で零下まで下がると
溶けていた雪面が、カッチカチに凍るのです
すると、普段はズボズボとぬかるみ
人の侵入を拒んできた雪面の上を
少しも足が、雪の中に沈むこともなく
魔法の様に歩いたり、走ったりできるのです
普段は道路に沿ってしか、行けなかった学校へ
田んぼの上だろうが、グラウンドだろうが
一直線で近道ができるのです
晴れ渡った青空の下、真っ白な雪面を走る時
まるで雲の上を行く、天使になった気分です
ただし、小川などの上は要注意!
カチカチの雪面のすぐ下は、空洞です
鬼ごっこをしていて、夢中になり過ぎ
ずぼりと、片足をとられ
しこたま固い雪に、顔面をぶつけ
長靴はそのまま、川に流され行方不明
なんてことが、結末に待っています
南国あまくさに積もった雪は
幼少時の、あの夢の凍み渡りの
再現の期待も知らず
白銀の世界が、夢だったかのように
あっという間に消えてなくなりました
淡く、儚(はかな)く・・・

2015年03月07日
旧友の知らせ、悠久の調べ

フェイスブックにあげられた、友人の記事の中の画像
知っていますか?
長岡の花火大会は、大空襲で亡くなられた方の
慰霊のために始まりました
長岡花火物語
そのため、土日ではなく
毎年8月2,3日に打ち上げられます
震える空気を肌に浴び、腹の中にまで響く
あの花火を、毎年見上げて育ちました
もう30年近く、足を運んでいませんが
夜空を彩る輝きは、色あせるどころか
今も進化し続けているんだろうな~
いつか再び、会場に足を運ぶその日まで
年輪を重ねた姿が、輝いているように
自分磨きを、頑張りますか~~
おお~っと、その前に
お客様の車、磨かなきゃ~~
2014年03月16日
学校給食へ、お呼ばれ
先日、稜南中学校では初の取り組みとなる
招待給食なるものに、招待されました

学校評議員なるものを、もう4年ほどしているため
今はもう卒業していった、3年生のクラスで
食事を共にさせて頂きました

なかなかの内容でしょ!

なんと、給食委員さんは
うちのお隣さんの、ご長男です

まわりの生徒さんの方が、緊張しているようです
中学校と、生徒サンたちのおもてなし
給食と共に、十分に味わいさせて頂きましたよ
学校の給食と言えば、皆さん何が好きでしたか?
自分より前の世代だと、クジラベーコンや
クジラの竜田揚げ
自分は、特別な日に出てくる「揚げパン」が好きでしたね~
今では、美味しいパン屋さんがたくさんあって
自分で買いに行ったりできますが、小学生の頃は
甘いパンは、まさにご馳走でした!
そして牛乳に入れると、コーヒー牛乳になる粉
それが出た時だけ、混ぜる用のストローがついていたような・・・
あとはスープ状のカレーに、「ソフトめん」をいれて
先割れスプーンで、食べるという
今思い出すと、無茶苦茶な食べ方を強要されていたもんです
今は、うどんの美味しさも格段に上がって
当時の「ソフトめん」など、見向きもしないでしょうが
あの頃は、それで十分満足していましたね~
今食べている給食から、40年も前の話です
まさに、「旧食(キュウショク)」のお話でした
招待給食なるものに、招待されました
学校評議員なるものを、もう4年ほどしているため
今はもう卒業していった、3年生のクラスで
食事を共にさせて頂きました
なかなかの内容でしょ!
なんと、給食委員さんは
うちのお隣さんの、ご長男です

まわりの生徒さんの方が、緊張しているようです
中学校と、生徒サンたちのおもてなし
給食と共に、十分に味わいさせて頂きましたよ
学校の給食と言えば、皆さん何が好きでしたか?
自分より前の世代だと、クジラベーコンや
クジラの竜田揚げ
自分は、特別な日に出てくる「揚げパン」が好きでしたね~
今では、美味しいパン屋さんがたくさんあって
自分で買いに行ったりできますが、小学生の頃は
甘いパンは、まさにご馳走でした!
そして牛乳に入れると、コーヒー牛乳になる粉
それが出た時だけ、混ぜる用のストローがついていたような・・・
あとはスープ状のカレーに、「ソフトめん」をいれて
先割れスプーンで、食べるという
今思い出すと、無茶苦茶な食べ方を強要されていたもんです
今は、うどんの美味しさも格段に上がって
当時の「ソフトめん」など、見向きもしないでしょうが
あの頃は、それで十分満足していましたね~
今食べている給食から、40年も前の話です
まさに、「旧食(キュウショク)」のお話でした
2014年01月21日
語り合えなかった、接点
画像の方をご存じでしょうか

先日91歳で亡くなられた、小野田寛郎さん
フィリピンのルバング島で、太平洋戦争の終結が届かず
22歳からの30年間近く、ゲリラ戦を展開
旧上官の命令書を受け、ようやく武力解除をし下山した方です
そもそも小野田さんは、東南アジアで貿易の仕事をしていたため
優れた語学力と、優秀さから
軍に召集後、当時のスパイ養成所
中野学校で、日本の敗戦後のゲリラ活動まで想定して
最後まで抵抗することを、徹底的に叩きこまれ
情報将校として、ルバング島に送り込まれたのです
戦闘行為とはいえ、地元住民を殺害
略奪行為に及んでおり、当然死刑になるものと
本人も覚悟をしていたそうです
ところが、あまりに純粋に軍務を遂行していたためと
解釈されたのか、特別恩赦で
無罪放免となり、帰国を果たしたのです
画像の小野田さんの、眼光は鋭く
まさに戦時中の、軍人そのものです
当時のマスコミは、旧日本国軍の亡霊などと
心無い言葉を浴びせられたり、変わり果てた祖国に
失望し、その後ブラジルに渡り
農園をされ、日本人初となる叙勲を
ブラジルから受けるなど、地域にも貢献され
日本の行く末を憂慮され、若者のための
「小野田自然塾」なるものも、主催された

時代の大波に奔走されながらも、信念を貫き
その人生を、全うされた小野田さん
晩年の画像は、先の画像とはうって変わって
あらゆる辛酸を、その身に内包した
まことに穏やかな、表情をされています

その小野田さんが、帰国後書かれた
「わがルバン島の30年戦争」
原鈑、中学一年生くらいに
なぜか、家の片隅に置いてあるので
手にして、読みだすと
一気に、読破した記憶があります
原鈑の実父は、大工でした
自分の記憶では、屋根から落ちたり
大きなケガを、2回ほどしたことがあります
一回は、入院をしたので
その時に購入して、読んだのでしょう
父は、家の中ではまったく無口な人でした
そのかわり、他人の悪口や
仕事のグチなども、一切聞いた記憶がありません
語る事もなく、また自分から父に対して
語りかける事もしなかったので、会話らしい会話を
ほとんどすることもなく、22年前に父は他界しました
小野田さんの訃報にふれ、実家にあった一冊の本が
鮮明に思い出され、いま父が生きていれば
あの本を読んで、何を感じたのか
たとえ一言二言でもいい、聞いてみたいもんだと
ふと思いをはせた、その日の夜でした・・・
人生で一番華やかな20代からの30年を
ジャングルで過ごし、帰国してから
本当の人生をスタートさせた時、小野田さんは51歳でした
それから、社会に順応し
なおかつ、数々の功績を積み上げてこられたのです
父よ!あなたの息子も50歳になりました
あなたに恥じないよう、いまからまた
おのれの人生、頑張りますよ~!

先日91歳で亡くなられた、小野田寛郎さん
フィリピンのルバング島で、太平洋戦争の終結が届かず
22歳からの30年間近く、ゲリラ戦を展開
旧上官の命令書を受け、ようやく武力解除をし下山した方です
そもそも小野田さんは、東南アジアで貿易の仕事をしていたため
優れた語学力と、優秀さから
軍に召集後、当時のスパイ養成所
中野学校で、日本の敗戦後のゲリラ活動まで想定して
最後まで抵抗することを、徹底的に叩きこまれ
情報将校として、ルバング島に送り込まれたのです
戦闘行為とはいえ、地元住民を殺害
略奪行為に及んでおり、当然死刑になるものと
本人も覚悟をしていたそうです
ところが、あまりに純粋に軍務を遂行していたためと
解釈されたのか、特別恩赦で
無罪放免となり、帰国を果たしたのです
画像の小野田さんの、眼光は鋭く
まさに戦時中の、軍人そのものです
当時のマスコミは、旧日本国軍の亡霊などと
心無い言葉を浴びせられたり、変わり果てた祖国に
失望し、その後ブラジルに渡り
農園をされ、日本人初となる叙勲を
ブラジルから受けるなど、地域にも貢献され
日本の行く末を憂慮され、若者のための
「小野田自然塾」なるものも、主催された

時代の大波に奔走されながらも、信念を貫き
その人生を、全うされた小野田さん
晩年の画像は、先の画像とはうって変わって
あらゆる辛酸を、その身に内包した
まことに穏やかな、表情をされています

その小野田さんが、帰国後書かれた
「わがルバン島の30年戦争」
原鈑、中学一年生くらいに
なぜか、家の片隅に置いてあるので
手にして、読みだすと
一気に、読破した記憶があります
原鈑の実父は、大工でした
自分の記憶では、屋根から落ちたり
大きなケガを、2回ほどしたことがあります
一回は、入院をしたので
その時に購入して、読んだのでしょう
父は、家の中ではまったく無口な人でした
そのかわり、他人の悪口や
仕事のグチなども、一切聞いた記憶がありません
語る事もなく、また自分から父に対して
語りかける事もしなかったので、会話らしい会話を
ほとんどすることもなく、22年前に父は他界しました
小野田さんの訃報にふれ、実家にあった一冊の本が
鮮明に思い出され、いま父が生きていれば
あの本を読んで、何を感じたのか
たとえ一言二言でもいい、聞いてみたいもんだと
ふと思いをはせた、その日の夜でした・・・
人生で一番華やかな20代からの30年を
ジャングルで過ごし、帰国してから
本当の人生をスタートさせた時、小野田さんは51歳でした
それから、社会に順応し
なおかつ、数々の功績を積み上げてこられたのです
父よ!あなたの息子も50歳になりました
あなたに恥じないよう、いまからまた
おのれの人生、頑張りますよ~!
2013年09月12日
いまだ影すら踏めず・・・恩師再会
誰でも、自分の人生において
大きな影響を受けた人がいると思う
自分の人生を、大きく変える人との出会い
原鈑は、小学5,6年の担任の先生です

ひと学年、7クラスもあり
全てが40人以上の、マンモス小学校
勉強にしろ、運動するにしろ、やんちゃをするにしろ
どのジャンルにも、スーパースターがいて
自分に対する自信など、とても持てなかった小学生時代

元来の内気な性格に、磨きがかかり
クラスでも、ほとんど目立たない生徒でした
そんな原鈑が、5年生になったばかりの時
担任になった、川上先生が「終わりの会」で言われた言葉
「石田(原鈑の旧姓)くんは、掃除の支度が誰よりも早い」
みんなの前で、名指しでホメられ
頬が紅潮してくるのが、自分で分かります
純粋な少年は、有頂天になり
ホメられることにより、ちょっとづつ人前に出れるようになりました

今思えば、埋没している内気な子供を
何とか光を当ててあげようと、機会を先生がうかがっていて
掃除の支度が早い、などとたわいのない事で
とりあげたのでしょうが、自分の前に道が広がるような
そんな感覚におちいり、6年生の3学期では
投票で、学級委員長に選らばれると言う
信じられない事まで起きました

内気な少年の、37年後の姿

同窓会のクラス代表スピーチで、冬の朝
軍手でキャッチボールをしていて、窓ガラスを割り
用務員の稲田さんに、怒られている現場のマネを
しているところ(笑)
中学校の同窓会を終え、新潟を後にする最終日に
先生と、お食事の約束をしていました
前回お会いしてから、15年ぶりです

85歳になられた今も、杖なしでスタスタと
こちらが歩く以上の、スピードで歩かれます

小学生のころの自分に、歩むべき道を拓き
導いて下さった恩師との、会食

先生のお話は、年配の方特有の同じ話の繰り返しなど
まったくなく、小学生に戻って授業を受けているかのような
錯覚に陥るほどでした
教師をしている間、自分自身を先生だと思ったことは
一度もないそうである、「えっ!?」びっくりして聞き返すと
自分の目の前にいる、子供たち一人一人が
自分に、教師のやるべきことを教えてくれる
先生だと思って、やっておられたそうである

泣き、笑い、怒り・・・感情を隠すこともせず
走り回っていた頃、先生はとんでもなく先を行かれていた
とてつもない、存在であった
40年近くの歳月が流れ
今は、どこぞのいいおっさんになっているが
目の前にいる恩師に、どれだけ近づけたのだろうか・・・
三歩下がって、師の影踏まずというが
いまだに、その距離まで近づけては
いないようだ・・・
大きな影響を受けた人がいると思う
自分の人生を、大きく変える人との出会い
原鈑は、小学5,6年の担任の先生です

ひと学年、7クラスもあり
全てが40人以上の、マンモス小学校
勉強にしろ、運動するにしろ、やんちゃをするにしろ
どのジャンルにも、スーパースターがいて
自分に対する自信など、とても持てなかった小学生時代
元来の内気な性格に、磨きがかかり
クラスでも、ほとんど目立たない生徒でした
そんな原鈑が、5年生になったばかりの時
担任になった、川上先生が「終わりの会」で言われた言葉
「石田(原鈑の旧姓)くんは、掃除の支度が誰よりも早い」
みんなの前で、名指しでホメられ
頬が紅潮してくるのが、自分で分かります
純粋な少年は、有頂天になり
ホメられることにより、ちょっとづつ人前に出れるようになりました
今思えば、埋没している内気な子供を
何とか光を当ててあげようと、機会を先生がうかがっていて
掃除の支度が早い、などとたわいのない事で
とりあげたのでしょうが、自分の前に道が広がるような
そんな感覚におちいり、6年生の3学期では
投票で、学級委員長に選らばれると言う
信じられない事まで起きました

内気な少年の、37年後の姿

同窓会のクラス代表スピーチで、冬の朝
軍手でキャッチボールをしていて、窓ガラスを割り
用務員の稲田さんに、怒られている現場のマネを
しているところ(笑)
中学校の同窓会を終え、新潟を後にする最終日に
先生と、お食事の約束をしていました
前回お会いしてから、15年ぶりです

85歳になられた今も、杖なしでスタスタと
こちらが歩く以上の、スピードで歩かれます

小学生のころの自分に、歩むべき道を拓き
導いて下さった恩師との、会食

先生のお話は、年配の方特有の同じ話の繰り返しなど
まったくなく、小学生に戻って授業を受けているかのような
錯覚に陥るほどでした
教師をしている間、自分自身を先生だと思ったことは
一度もないそうである、「えっ!?」びっくりして聞き返すと
自分の目の前にいる、子供たち一人一人が
自分に、教師のやるべきことを教えてくれる
先生だと思って、やっておられたそうである

泣き、笑い、怒り・・・感情を隠すこともせず
走り回っていた頃、先生はとんでもなく先を行かれていた
とてつもない、存在であった
40年近くの歳月が流れ
今は、どこぞのいいおっさんになっているが
目の前にいる恩師に、どれだけ近づけたのだろうか・・・
三歩下がって、師の影踏まずというが
いまだに、その距離まで近づけては
いないようだ・・・
2013年07月05日
壊れた!!からの、つながるご縁
何の前触れもなく、いきなりスマホが
こわれてくれました・・・

アンドロイドAUなのですが、この充電器のコネクター端子と
ジャックの接触不良で、充電しなくなったのです・・・

MONさん所有の、ihoneのジャックに比べると
いかにも、「チャチ」です
しかし、携帯はいまや重要なビジネスパートナー
ないと仕事に、支障があります
MONさんにお願いして、本渡市内のAUショップで
修理を頼み、代替機種を借りてきましたが
必要最小限のアプリの設定でも、慣れない機種で
思うままに、いきません
そんな時、普段は操作することのなかった
フェイスブックの初期設定で、アドレス帳から
友達を探すを、チェックすると
新潟の同級生のお店の名前が・・・
故郷の同級生は、誰もやってないと思っていたので
うれしくなり、さっそく友達申請・・・すると、即OK!の返事が!
中学の同級生だった彼女は、当時からしっかり者で
いつも頭が上がらなかった、記憶があります(笑)
そして社会人になると、すぐ美容師の世界に入り
二十歳の成人式のときにも、同級生がほぼ振袖で着飾るなか
早朝からお店で、仕事に追われたであろう彼女は
一人ポツリと、スーツ姿でした・・・
しかし、集合写真を撮ったときの彼女の瞳は
確固たる信念と、未来の夢をしっかりと見据えて
輝いていたのが、印象的でした
あれから30年、お店を立ち上げ
押し寄せる不景気のなか、光芒と流行の激しい業界を
彼女は、お店を大きくしていったのです
紆余曲折はあったでしょうが、その手腕たるや
同じ自営業者として、ただただ頭が下がります
帰郷の際、情報が集まっているお店の存在は
同級生としてとてもありがたく、また誇りでもあります
見附市にある、原鈑の同級生のお店のブログ→コア・フィール・フィス
そんな同級生との、フェイスブックでやりとりをしていたら
お店のお客さんの中に、3、4歳くらいで別れてから
一度も会ったことがない、幼なじみが連絡をくれました
びっくりです!
自分の記憶は断片的ですが、母の話によると
原鈑の5歳上の兄は、叱られて
冬場、家の外に放り出されると
雪の中に埋まったまま、じっとしているので
こわくなって、掘り出して家の中に入れたそうです
いっぽうの原鈑はというと・・・
幼い記憶の中、残した味噌汁を前に
ブツブツ言っていたら、母が激怒!
3歳の原鈑を、むんずとつかみ
雪が積もる家の外に、ほおり投げました
母が家に入ろうと後ろを向いた瞬間
極端なO脚であった、母のまたぐらを
すばやく、くぐりぬけて、家の中へ逃げる原鈑
ますます怒った母は、今度は外に引きずり出してから
足で原鈑を押さえつけ、玄関の戸をぴしゃりと閉めました
鍵もかけられ、万事休すっと思いきや
なんて利発な子供だったんでしょう、アパートのとなりの部屋に
住んでいた、その幼なじみの子の家に逃げ込んでいったのです
そのあと、怒りまくった母親のゲンコツが
原鈑の頭頂部を直撃、泣き叫びながら
家に、連れ戻されるときに見た
幼なじみの子の、きょとんとした顔は
今も鮮明に憶えています
突然にパソコンが壊れ、この「かたらんな」とめぐり合う
きっかけになった事といい
今回の突然のスマホクラッシュといい
世の中には不思議な、そして素晴らしいご縁が
どこであるのか、わからないものですね・・・
明日は、稜南中学校へ「親父たちの読み聞かせ」です
市立図書館の、司書の方のおススメを4冊
MONさんが、借りてきてくれました
「つきよのかいじゅう」は絵がキレイで、オチが笑えます
しかし、あっという間に終わりそうなので
持ち時間15分の範囲内で済むもう一冊を
「だるまだ!」にしようか、「いいから いいから 3」に
しようか、ストップウォッチで計測して決めたいと思います
使い慣れないスマホのストップウォッチで!
2013年05月19日
回顧録!人生最大の危機!!
ブログのネタになりそうな、笑える写真があったよな~と
古いアルバムを、引っ張り出してめくってみると
出てくるわ出てくるわ・・・
いまさら隠すことはないので、公表いたします!

18歳から27歳までの9年間
公務員として、東京の郵便局に勤務しておりましたよ
見て下さい、体を張って、命を懸けていました(笑)

7階建てビルの屋上の、一番高いところ

そんな入局して間もない頃
岩手の民話のふるさと、遠野町にある
先輩の実家に、イワナやヤマメなどを釣る
渓流釣りに、出かける事になりました

オフロード指向の原鈑の愛車は、ホンダXL250

もともとやんちゃな人間の、人生で最もやんちゃな頃・・・
ぶっ飛んでます(^_^;)

いつ何が起こっても、不思議ではない事を
平気でやっています

そんな彼がこの後、人生最大ともいえる
危機に直面することなど、予想すらしていなかったのである

ひとしきり釣りを終え、先輩の実家に到着
画像はイメージです

お風呂をお借りして、湯船にひたっていると・・・
画像はイメージです(笑)

いきなりお風呂場の扉が、ガラッと開いて
80はゆうに超えた、おばあちゃんがつかつかと
入って来るではありませんか!
それどころか、恐ろしい言葉が
老婆の口から、もれてきたのです
「おめぇは知らねえからよぉ~、おんな教えてやっから」
それを聞いた原鈑、湯船の中で全身総毛立ち
声にならない絶叫を上げています!!!
不敵な笑みを浮かべ、じりじりとにじり寄ってくる老婆
(やめろババア!俺は風呂でスルメに女を教えてもらいたくはないぞ~!!)
そう叫んだつもりが、恐怖のあまり声になりません
老婆の枯れ木のような手が、けがれを知らない
純情無垢な少年の肌に伸びてきます
もうだめだ!俺はこんな東北の最果ての地で
スルメババアの毒牙にかかるのだ~
体が硬直して、身動きが出来ません
人生の終焉を覚悟したその時
おばあちゃんの手は、原鈑の体を過ぎ
二つある蛇口をつかみました・・・
(へっ!??)
「ぬるかったら、こっちがお湯」
「熱かったら、こっちが水」
呆然とする原鈑をしり目に、老婆は何事もなく去っていきました・・・
まだ心臓は破裂しそうなくらい、バクバク脈打っています
冷静になって、もう一度あの言葉を思い出します
(おんな、教えてやっから)・・・
ここは東北、おんな→オレがなぁ・・・
オレが、なぁ~ (お風呂の温度調節を)教えてやるから・・・・
こっちがお湯、こっちが水・・・
そういうことだったのか・・・
大きく安どのため息をついた、10代の原鈑なのでした
岩手の夜に、原鈑 撃チン!
古いアルバムを、引っ張り出してめくってみると
出てくるわ出てくるわ・・・

いまさら隠すことはないので、公表いたします!

18歳から27歳までの9年間
公務員として、東京の郵便局に勤務しておりましたよ
見て下さい、体を張って、命を懸けていました(笑)

7階建てビルの屋上の、一番高いところ

そんな入局して間もない頃
岩手の民話のふるさと、遠野町にある
先輩の実家に、イワナやヤマメなどを釣る
渓流釣りに、出かける事になりました

オフロード指向の原鈑の愛車は、ホンダXL250

もともとやんちゃな人間の、人生で最もやんちゃな頃・・・
ぶっ飛んでます(^_^;)

いつ何が起こっても、不思議ではない事を
平気でやっています

そんな彼がこの後、人生最大ともいえる
危機に直面することなど、予想すらしていなかったのである

ひとしきり釣りを終え、先輩の実家に到着
画像はイメージです

お風呂をお借りして、湯船にひたっていると・・・
画像はイメージです(笑)

いきなりお風呂場の扉が、ガラッと開いて
80はゆうに超えた、おばあちゃんがつかつかと
入って来るではありませんか!
それどころか、恐ろしい言葉が
老婆の口から、もれてきたのです
「おめぇは知らねえからよぉ~、おんな教えてやっから」
それを聞いた原鈑、湯船の中で全身総毛立ち
声にならない絶叫を上げています!!!
不敵な笑みを浮かべ、じりじりとにじり寄ってくる老婆
(やめろババア!俺は風呂でスルメに女を教えてもらいたくはないぞ~!!)
そう叫んだつもりが、恐怖のあまり声になりません
老婆の枯れ木のような手が、けがれを知らない
純情無垢な少年の肌に伸びてきます
もうだめだ!俺はこんな東北の最果ての地で
スルメババアの毒牙にかかるのだ~
体が硬直して、身動きが出来ません
人生の終焉を覚悟したその時
おばあちゃんの手は、原鈑の体を過ぎ
二つある蛇口をつかみました・・・
(へっ!??)
「ぬるかったら、こっちがお湯」
「熱かったら、こっちが水」
呆然とする原鈑をしり目に、老婆は何事もなく去っていきました・・・
まだ心臓は破裂しそうなくらい、バクバク脈打っています
冷静になって、もう一度あの言葉を思い出します
(おんな、教えてやっから)・・・
ここは東北、おんな→オレがなぁ・・・
オレが、なぁ~ (お風呂の温度調節を)教えてやるから・・・・
こっちがお湯、こっちが水・・・
そういうことだったのか・・・
大きく安どのため息をついた、10代の原鈑なのでした
岩手の夜に、原鈑 撃チン!
